明治の創業当時

このレッテルはあなごめし弁当最初のものです。明治の末から大正時代の初めまで使われました。定価金拾五銭と書かれています。墨絵のタッチがおしゃれです。明治30年鉄道が開通し宮島駅が誕生しました。島への蒸気船も走り、海上のルートの重要拠点であった宮島が鉄道とつながった商業地として更に多くの参拝者を迎え栄えていくことになった時代です。西日本でも有数の歓楽街として繁栄を重ねた江戸時代の文化に、欧州スタイルがミックスされ宮島島内の景色も独特の匂いを漂わせながらおしゃれになっていきました。

大正時代1

このレッテルは大正時代のものです。山陽鉄道が国鉄として統合され、あらゆる駅弁のレッテルが東京神田の印刷所で刷られたのが、この時代です。ご覧のようにレッテルにはコマーシャルが2カ所に別れて載せられています。この時代は、全国の駅弁に毎月同じ宣伝文がこうした形でさしこまれておりました。

大正時代2

同じく、大正時代のレッテルです。当時のレトロなデザインは、今の私達の感性では到底及ぶべくもありません。この時代の世相を反映した宣伝文にもご注目下さいませ。また、ラベルの中にある宮嶋駅、現在は宮島口駅のことですが戦前までこの宮嶋の名前で親しまれておりました。

大正時代3

このレッテルは大正も終わりの頃のレッテルです。明治から大正にかけては金十五銭でしたが、丁度国鉄に統合されてラベルにコマーシャルが入りだした頃から、一気に値上がりしてしまい三十銭になってしまいました。大正時代のこれらのレッテルは、毎月のように広告文が入れ替わり、全国の駅弁屋に東京神田の印刷所から送り出されていました。当店にもここに出ていないたくさんの大正時代のラベルがあったのですが、今はこれ以外に数点を残すのみとなりました。大正十一年秋、東京を襲った関東大震災はこの駅弁のラベルに大きな転機をもたらしました。当然神田の印刷所も破壊されたことでしょう。統合された全国の駅弁ラベルもこうして地方に戻されていきました。

昭和1

このラベルは昭和に入ってから広島の印刷所で刷られ使われたものです。この時代に今のKIOSK(駅売店)の前進である国鉄弘済会が組織され、お弁当の値段も地域毎に統制される時代になりました。大正時代の三十銭も昭和に入ってからご覧のように二十五銭で統制されました。このラベルは昭和十四年まで使われていました。

昭和2

太平洋戦争の勃発に伴いラベルのうえでも戦時色の強い言葉が全国の駅弁でも使われていたようです。戦争の激化に伴いお米のない時代はパンを売っていたこともございました。使われずに残ったラベルには「国民精神総動員」の大きな文字が刷られていました。 厳しい時代のレッテルです。